杉並区永福町
“おかく”迷子
デート(というか、もちろん“久田”ともあうのだが、実は飲み会)に行こうとするときは普段は永福町からゆくのだが、この日に限って明大前から行こうと神田川を南に渡って駅に向かった。北側の道を通り、永福町の駅を利用する時はそんなことはしないのに、“おかく”はうろうろ付いてくる。お散歩と勘違いしたのかもしれない。
天気の良い日には“おかく”を連れてアパートの周りをよくお散歩して歩いたものだった。“おかく”はしっぽをまっすぐに立てて、私を追い越したり、後になったり、茂みの中に跳びこんでは2メートルほど先の薮の中から飛び出してくる。
アパートの敷地は生け垣でかこってあり、その中に十分すぎるほどの余裕を持って3棟のアパートと駐車場が配置されていた。その生け垣の南側は神田川とその遊歩道になっている。西側は結構深い竹やぶで、北側は半地下のガレージに右から順にランドローバー、ベンツ、ジャガーと並んでいるお屋敷だ。南側は小さな小舘が数件立っている。もちろん“おかく”にとってはそのお屋敷を含め、ほとんどの庭もテリトリーだったろう。ということで、十分に広く、しかも同族と怪しい人間以外は脅威があまりない環境で、まともに一周すると3分で回れるところなのだがあっちで休み、こっちで戻り、20分から30分程度のお散歩をよく楽しんだものだ。“おかく”と一緒に暮らした時間の中で最もお気に入りの時間の一つだった。
その日は通常のテリトリーより大幅に外れて、神田川にかかる橋を南に渡り、その後スタイリストの黒須さんがすんでいたあたりまで付いてきてしまった。「“おかく”、もうお家へお帰り」というと何だか不満そうな顔をして立ち止まる。私が歩いていくと、また付いてくる。少し声に怒った調子を含ませ、「帰るの!」と突っぱねて私は振り向かずにそのまま駅に向かった。どうやら団地そばの公園の辺りであきらめたらしい。
当時の飲み会は体力をフルに使い、周りの迷惑省みず、台風のように周囲を巻き込み、暴れまくるというスタイルが主流? だった。当然“おかく”のことなどすっかり忘れて、多分新宿のアフリカ料理の店で当時の友人達数人とマウスハープと太鼓をたたき、「そば屋」を始めアフリカ民族音楽を店員の黒人達を巻き込んで大熱唱していたと思う。(確か池袋では10人ほどで春の祭典をフルコーラスやってしまい、出入り禁止になった店がある)その後、“久田”を伴い帰宅するが“おかく”がいない。専用扉をつけてあるので、心配はしていなかったのだが、1時間経っても帰ってこないのでやっと別れ際のことを思い出した。
それから“久田”と二人、アパートから飛び出して、周りを探し、竹やぶやら、生け垣やらをのぞき込み、もしやと“おかく”と別れたあたりの公園まで足を伸ばしてみた。「“おかく”!」と呼ぶと、「アーン」と答える。まさしく“おかく”をおいてけぼりにした、その場にいたのだ。猫の(特にメスは)テリトリーというものは思ったよりも狭いのだそうだ。完全に自分のなわばり、というのが自宅を中心に半径10〜15mで、それ以上は認識はしているものの、本来の「なわばり」では無く、あくまで二次的に、見、聞こえる範囲としての認識でしかないそうだ。そうすると彼女は100mほど、なわばりからはずれ、「二次なわばり」の外にでてしまっていたわけだ。よくぞ、あせって変なところに行ってしまわなかったものだ。どこにも行かずに、そこに居続けてくれたおかげで見つけることが出来た。
そういえば、“おかく”はよく人になつくし、なでられるのが大好きだし、猫にしては抱っこも嫌いではないが、家の外ではわたしにもあまり触らせない。妙な用心深さ、というよりもただしい“臆病さ”を合わせ持っていたように思う。おかげで彼女は大きな事故にも遭わず、18年間を生き抜くことが出来たのかもしれない。
とにもかくにも、“おかく”は無事に抱っこされて“久田”とともにあたしのアパートに戻った。その晩は異様に幸せな宵だった。